「竹内洋介。彼は明確なヴィジョンを持った映画監督であり、それを誠実に銀幕に描き出すことのできる才能を証明した。人間模様を描く彼の次回作を、我々は待ちきれない。」
導入
映画の物語が、有名な画家の芸術と人生に触発されることは、珍しいことだ。映画「種をまく人」の場合で言うと、オランダの画家・ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの人生、より具体的に言えば「種をまく人」や「ひまわり」の絵画、これらの要素が一体化し、物語を竹内洋介に紡がせた。
「種をまく人」は竹内洋介の初めての長編映画への挑戦である。これまでレビューをしてきたインディーズ映画同様に、我々は、竹内洋介が新たな風を映画芸術への台の上に持ち込むことができるのかどうか、そして彼の映画が、今後訪れるであろう映画の未来に何を約束してくれるのかを問う。
レビュー
精神病院から退院した光雄(岸建太朗)は、弟・裕太(足立智充)の元へ向かう。裕太は、妻の葉子(中島亜梨沙)や娘の知恵(竹中涼乃)、そしてダウン症の一希(竹内一花)と共に幸せな生活を送っていた。
明くる日、知恵は光雄と遊園地に行きたい嘆願する。裕太と葉子はそれを快く受け入れ、娘たちを光雄に預けるが遊園地で不幸が訪れる。光雄がトイレに行っている間に、知恵が一希を地面に落として死なせてしまう。葉子は、知恵と光雄を執拗に問いつめる。その過度のプレッシャーからか、知恵は光雄が落としたと嘘をついてしまう。そしてその後、光雄は警察に自首するのだが。
「種をまく人」のテーマの核をなすものは、罪を背負って生きることの困難または不可能性だ。知恵の偽りの行為が、この物語の広範囲に渡って影響している。彼女の嘘と光雄の自首が、象徴的な枠組みであるような家族の中で、知恵自らの言葉で真実を明らかにすることを不可能にしてしまった。(物語についての脚注1)
この点において、真実を明らかにすることの不可能性、真実を他者に理解させることの不可能性を物語っている。知恵のくだりにおいてもまた、独りで罪を背負わざるを得ないことを示している−言葉を換えれば、罪を逃れることができる象徴的な手段を失ってしまうのである。さらに、「種をまく人」の物語は、様々な性質の異なる言葉の欠如、沈黙の特徴というものを示している。光雄の場合では、彼の沈黙が、彼が耐えなければいけない心の傷を伴っている。光雄の沈黙のうちにあるものは、彼を精神病院に追いやった凄惨な過去を隠し持っている。彼は沈黙しているものの、例えば種を蒔くという行為は、彼の悲壮、歓喜、罪の意識を表している。それは、彼に象徴的な主体性の枠組みを与えている。知恵の沈黙は、彼女の嘘の帰結であって、彼女が生きていく為に課せられた、とてつもなく重い罪である。葉子の場合は、
彼女が何も話さなくなってしまった期間というものは、彼女の悲しみと、一希の死が引き起こした複雑な感情を表現できないこと我々に示している。(物語に関する脚注1)また、この映画の中で描かれる生活は、日本の特徴的は文化−お神輿のある夏祭り、日本の葬式など−のなかにしっかりと基づいている。(物語に関する脚注3、4)
「種をまく人」の映像は、流動的で、時おりドキュメンタリーのような感覚を覚えさせる。(映像に関する脚注2)固定されたカットも存在はしているものの、感情を写したり、人物の表情をとらえるためのカットのほとんどは、揺れるような、浮遊するような動きを見せている。そして、人物を追ってゆく自然な動きは、かの溝口健二の有名な移動ショットを彷彿とさせる。人物へ近くづくための流麗な接近や、人物を中心に旋回したりする動きはまさにそれである。それは過度な主張をする訳でもなく、自然な形で映像スタイルに芸術性を与えている。(映像に関する脚注3)
音に対する考えつくされた取り組みも素晴らしく、物語のテーマを際立たせている。限定された空間におけるノイズは、物語世界の空間的特徴を与えることがある。人物によって発せられる音声は、その空間の中で響き、空間はそれを取り囲む音声によって位置づけられる。時に、空間の音が、沈黙もしくは登場人物の言葉の欠落を強調している。(映像に関する脚注4)
「種をまく人」をまさに輝かせるものは、役者たちの演技である。全ての役者の演技が自然であり、なおかつ、物語に必要な感情的な繊細さを表現している。そして最も印象的なのが、沈黙しつづける光雄を演じている岸建太朗の演技である。彼ら役者たちの相互作用によって、2016年で最も素晴らしいといって良いシーンを作り上げた。(映像に関するノート1)。
自然で流麗な映像、最高の演技、音に対する繊細なまでのこだわり、「種をまく人」は真正な人間感情の、非常に感動的なパレットとなった。いわゆる“感傷的”ではなく、感情的なものが全てのカットの中に存在している。特に沈黙の中で、その感情は極まっている。「種をまく人」は、偽りの中で生きていくことの不可能性と、他者に真実を伝えることの必要性、そしてその真実を他者の為に認めることの重要性を問うている。映画「種をまく人」によって、竹内洋介という監督が明確なヴィジョンと、それを誠実に銀幕に描き出すことのできる才能を持った監督であることを証明した。人間模様を描く映画への彼の次の冒険を、我々は待ちきれない。
脚注
物語に関する脚注1:知恵は結局、告白することになるのだが、母・葉子は、世間体や保身の為に、知恵の告白を二人の間だけの秘密にした。そして真実は二人だけの中で留まることになる。その結果、知恵の贖罪への道は閉ざされてしまう。
物語に関する脚注2:葉子の(夫と家族に対しての)罪悪感、悲しみ、怒り、が全て同じタイミングで噴出したことは驚くことではない。積もり積もった感情を吐き出したことによって、葉子は生きることができたのである。
物語に関する脚注3:通夜振る舞いの席で、葉子の母・恵子は、精神病院の患者について、「彼らは普通ではない」という浅はかな偏見を示した。彼女のその偏見は、悲しむ「一希の母」葉子に、罪悪感というものを背負わせた。
映像に関する脚注1:光雄の帰宅のシーンは、実に感動的で、おそらく、2016年の映画の中で最も印象的なシーンかもしれない。このシーンで使われたハンディカムの秀逸な撮影効果が、この場面を絶妙に形作る。それは、このシーンにドキュメンタリー的感覚を与え、登場人物の自由な感情を印象付けた。
映像に関する脚注2:日本映画の撮影技法は、時間を表す長いカットを好むところに特徴づけられる。この物語の後半部分は、そのようなカットで構成されているが、事件が起こる前半部分は短いカットを組み合わせた素早い映像で構成されている。
映像に関する脚注3:クローズアップなどによる撮影は、人物の表情の変化に注意を払わせ、状況ごとの人物の微妙な感情の動きを強調している。
映像に関する脚注4:時おり、物語の空間における音は、ある連続した音楽と結合し、ショット流れの中で不安を助長させる。物語の中盤からは、音楽の使用を最低限に抑え、物語に広がっていく悲しみを映画にもたらしている
Yello, Is dit de Japanse vertaling?
Greetz Kris
Verstuurd vanaf mijn iPhone
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Yes, it is. haha