監督との話し合い: Kenji Yamauchi [日本語]

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Introduction

Our third guest for Talks with directors is Kenji Yamauchi, director of Being Mitsuko (2011), her father my lover (2015) and, of course, At the Terrace (2016). We’re grateful that Kenji Yamauchi took the time to sit down with us to discuss various aspects of his work. He talks about how he got interested in cinema, his inspirations, the differences between theater and cinema and his future project.

[This interview is in Japanese but will be translated in the coming weeks]

Interview

P-C: 監督になった経緯を教えてください。

25831_104023752970901_261248_nKenji Yamauchi: 大学(早稲田大学)では文学、演劇を勉強していました。映画は見るだけでした。CMの制作会社(電通プロックス)に就職して、やがてCMディレクターとして独立しました。ふつう、CMディレクターから映画監督になるのが一般的ですが、私は、演劇(作・演出)をメインでやるようになりました。それから一番最後に映画監督になりました。いわゆる助監督の経験はありません。今でもその3つをやっています。CMはもう、あまりやっていませんが。

P-C:「テラスにて」は、岸田國士戯曲賞に輝いた、「トロワグロ」を元にして作られていました。どうしてほかの作品ではなく、「トロワグロ」を映画にしようと思ったのですか?

K.Y.: 演劇(戯曲)の映画化は、あんがい多いですが、実はあまり成功した例がありません。なぜなら、演劇と映画では「時間」のとらえ方が違うからです。物語とは時間を操作することです。で、映画にとって、物語は最も重要な要素ですが、演劇にとって、物語の重要性は2番目か3番目です。ふつう、演劇を映画化するには、その戯曲が持っている時間を映画的な時間に組み直す必要があります。それが難しく、なかなかうまくいかない。

 「トロワグロ」は1シーンで時間をまったく操作しない戯曲でした。90分間そのままの「物語」というより「事象=起きたことをそのまま」です。劇作家としての私にとっても初めて書いたスタイルでした。これが映画化の一番大きな理由です。

つまり、例えば4幕の演劇を、いっしょうけんめいシーンを多くして、テンポをあげたり、盛り上がりを作って、オリジナルの戯曲の良さを消し、映画としてもよくない映画ができてしまうのに比べて、時間の操作のない事象を、そのまま映画化する方がうまくいくのではないか。そう思ったのです。

P-C: なぜフランス語タイトル「Trois Grotesque」を「At The Terrace」に変更したのですか?

K.Y.: 欧米ではどうだか知らないのですが、日本では、映画好き、映画マニアであればあるほど、演劇を見ません。みないどころか演劇を嫌っています。彼らは、演劇的な映画をとても嫌います。つまり、俳優がしゃべってばかり、あるいは、シーンが長かったりするのは映画ではない、と思っているのです。

私は、「テラスにて」を、演劇をよく見る客だけではなく、そういう映画マニアにも観てもらいたかったので、彼らに観る前からこう言いたかったのです。

「この映画は、演劇をそのままやっている映画ですよ。シーンはテラスしか出てきませんよ。それがなにか?イヤですか?でも観たら面白いですよ」と。これが理由です。もちろん、よりわかりやすいタイトルにしたかった、という理由もありますが。

P-C: 演劇と映画のもっとも重要な違いは何だと思いますか?

K.Y.:  2番目のの質問のところでこたえてしまいました。「時間」のとらえ方、「物語」への依存度です。

P-C: 演劇と映画の共通点は何ですか?

K.Y.:  上に書いた点以外は全て共通だと思います。しゃべってばかりだって立派な映画である可能性はあります。フィクションであり、俳優がセリフを覚えて演じるということに置いて同じです。

ドキュメンタリー映画はまったく別です。ドキュメンタリーの地点からみたら、ミヒャエル・ハネケがどんなにリアルな映画を作っても、それはシェークスピアと同じ枠内に入るわけですから。

P-C: どの監督方が、それぞれ演劇監督・映画監督としての山内ケンジに影響を与えましたか?

K.Y.: たくさんいます。Luis bunuel, Ingmar bergman, woody allen, R.Altman,Coen brothers….of course,Anton Chekov

P-C:「テラスにて」では舞台(演劇)のような部分・要素がいくつか見られました。それは意図したものですか?

K.Y.: そうです。「トロワグロ」と俳優も台本も、演出も衣裳も全て同じ。変えていません。

P-C: いつどこで「トロワグロ」、「テラスにて」のアイデアが誕生したのですか?監督自身の体験なども話に含まれていますか?

私はいつも、キャストを決めてから台本を書きます。「トロワグロ」もそうです。平岩紙さんをキャスティングしたので、彼女の色の白さを要素の入れたいと思ったのが、発想のきっかけです。

わたしの体験としては、やはり、CMディレクター時代に、クライアントである、いろいろな会社の中の上下関係や、会社員たちの建前と本音等を見ていた、ということがあります。

P-C: この映画は、性的な魅力を自覚するために、いまだに男の欲求や意見にしがみついている女性たちの様子を表現していると私は感じました。男女間で、きれいやかわいいの概念がいまなお中心的な役割を果たしている日本社会について監督はどう思っていますか?

よく言われることですが、日本はとても長い歴史のある国なわけですが、実際には、近代国家、自由主義国としての歴史は、まだ、たったの70年なのです。70年の間に急激に吸収、発展したので、いろいろなところがちゃんと成長していない。上司と部下、男と女、夫と妻、どの関係もまだまだ保守的で、未熟だと思います。

でも、そういう本音と建て前でもがいている、ある種陳腐な日本という文化が、演劇、映画としての題材として面白いと思っています。

P-C:「テラスにて」の映画内容は、男女関係、(男性による)女性の扱われ方に対する批判とも受け取れます。山内監督は、日本における男女関係、女性に対する男性的な振る舞い(女性を、自分の欲求を満たすための“物”として扱うなど)についてどう思われていますか?

K.Y.:  上の、前の質問で答えた通りです。特に「テラスにて」に出てくるお金持ちの階層ほど、コンサバティブな部分を持っています。例えば、専務が、はる子さんの腕をやたらほめて、「こういうのはやっぱりセクハラになるのかな?」と聞くところなどは典型的ですね。頭ではわかっているのに、本音は保守的。

が、こういう滑稽な人たちがいるから、日本はへんで面白いわけで、僕は批判というより、この映画では皮肉まじりに冷笑しているのです。

P-C: 監督の次回作(舞台、または映画)について少し教えてもらえますか?

K.Y.: 次回作の映画を今、書いているところです。どこにでもある会社に勤めているOL(OLって日本語か。オフィスレディ。これも差別ですね)が、お金をひものような彼氏にみついでしまい、彼氏とは別れ、お金がなくなります。

お金に困っている彼女を、会社の人たちが助けようとしますが、彼女は断ります。会社の人たちの中でも意見が分かれます。助けなくていい、という派と助けるべきだ、という派。やがて彼女は、会社の人からお金をもらうことにします。そのお礼として、自分になにができるだろうと考えます。

そんな話です。長くなりました。翻訳、たいへんですね。すみません。よろしくお願いします。ありがとうございました。

 

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